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苦考―「あり方」の問い

いつ頃からか物事の「あり方」について、非常に関心を持っている。
より硬い表現で言えば、「規範」であると思われるが、これは、現代のいくつかの学問領域では、ある種の流行である。例えば、規範倫理学とか、規範政治理論とか言ったりするが、その意味は、「どうあるべきか」という「べき」論である。
 福間聡によれば、この規範性は、ロールズの『正義の理論』(1971年)以降、再興されたものであるとする(『ロールズのカント的構成主義』)。また、川本隆史によれば、ロールズの『正義の理論』における正義への問いが含意するのは、国家がどうあるべきかを問うものであるという(『現代倫理学の冒険』)。
私は、決して流行でロールズに関心を持ったのではないが、ただ、ロールズを読まないと現代の政治理論ないし哲学の相関関係が理解できないであろうということからである。ゆえに、決してロールズの『正義の理論』以降のリベラルな平等という立場における、彼の主張が社会的リベラリズム論として、最善であるとは思わない。むしろ、平等性においては、R・ドゥオーキン、A・セン、M・ウォルツァーの理論の方が分かりやすいし、私を一読者として位置づけた時に、後者の方が説得的であるように思われる。(それだけ、ロールズの公正としての正義の導出論理は一筋縄ではいかない)

話を戻すと、私は、「規範」という言葉を「あり方」という表現に変換しているだけであるが、「あり方」といった方が、どこか考察の導入やその過程では、しっくりくる。この「あり方」の観点から言えば、ロールズの公正としての正義も正義の「あり方」の一考察である。

私は、物事の「あり方」に関心があることを改めて感じた。そして、様々な物事の中でも自由のあり方に関心がある。それは、同時に、自由主義に移行する。最近、共同体主義や共和主義などの規範理論の「あり方」が重要視されている観があるが、それは、「ポスト・リベラリズム」の兆候であるともいえる。また、民主主義の「あり方」でも、共同体主義的、共和主義的な、少なくとも「公共的領域」を意識した理論が展開されている。

この風潮は、これまで、自由主義社会がもたらしてきた負の遺産をみれば、わからなくもないし、そこから自由主義そのものを悪の権化としてみるような見方もわからなくもない。
私が思うに、自由のあり方を説いた時、J・S・ミルやA・スミスなどは自由がもたらす負の遺産を意識していたがゆえに、「最小限の自由」こそ重要であるとする「消極的自由」のニュアンスを含んだ道徳理論を展開した。それは、自由主義の位置づけに際しても言える。すなわち、中道でなければならないのである。I・バーリンなどの「消極的自由」論がその象徴である。

ところが、こういった「あり方」を度返しして、拡大解釈されてきた。自由を最大の価値として、その達成にこそ意味があるとした国、それがアメリカである。しかも、それは、民主主義と結びついた。ただ、民主主義の平等性は、自由の名の下に二次的位置づけであったのである。L・ハーツがアメリカ社会の根底にあるのは「絶対主義的自由主義の伝統」であると分析したことは、あまりにも有名である。そして、フェデラリストとリパブリカンの両政党の2大政党が確立する。それ以降、フェデラリストは共和党系として、リパブリカンは民主党系として継承されていくが、1860年のリンカーンの台頭から1929年の世界大恐慌が起こるまで、共和党の黄金時代であった。1896年の第2次産業革命によって、急速に自由主義の理念が最高位に達していた。しかし、大恐慌以降、「新しい自由主義」を唱えた民主党が優位になる。1960年代には、リベラルの最盛期であった。そして、この時期における社会的リベラルの時代背景とジョン・ロールズの『正義の理論』が合致してしまったのである。解釈者たちは、ロールズの理論は、民主党の福祉国家の理念を理論化したものとして解釈した。(しかし、ロールズ自身は、福祉国家の理論ではないと明言している)

私の解釈ではあるが、ロールズは、リベラリズムのあり方、その位置づけを正したのではないかと思う。つまり、「リベラルな平等」という中道である。(社会的自由主義者としてのあり方、功利主義や直観主義、そして、自由至上主義がもたらすあり方を乗り越えることによって)

理念と実践、理論と現実が必ずしもリンクしないのは言わずと知れているが、かといって、理念、理論が無駄というわけではなく、そこでは「あり方」が問われている。人間が社会集団にうちに生きて、共生していくことを所与としてみた時、ある種の公共善や共通善に見られる個人の利益を超越した価値を求めるが、ある意味で、先の理念や理論んがそれになる。人々が社会を形成する時、ないし、再編する時、その方向性を示してくれるのが、「あり方」を説いた理念である。しかし、それが、改めて問われるのは何故なのか。

西洋が近世、近代に入り、物事の認識における科学的視点、合理主義がもたらしたあり方、未だに、その万能性を見ている人間(しかし、それ故に、科学技術が発展している)―理性の無限の可能性の探究が改めて問われなくてはならないのだろうか。私の言う「あり方」は、必ずしも合理主義に依拠していない。また、あり方を説いた時、それが、実証的に解決されるものなのかどうか。実証研究、科学としての客観性の視点。これも近代の合理主義に立脚しているが、人間とはそれほど理性的であるとも思えない。もっと動物的である。人間味とも言ってもよいが、その視点で見ると、人間は抽象的な世界で生活しているような気がする。

私は、決して哲学が万能であるとは思わないが、人間がもたらした諸概念、例えば自由、それ自体のあり方の探究もさることながら、また、社会の再編などにおいて、その理念的な形態としてのあり方を問う前に、人間のあり方も今一度問わなくてはならない。そして、その場合、必ずしも近代に立脚しなくてもよい。むしろ「善く生きること」を問いたソクラテスの主張を見直す必要がありそうだ。よく言う「古くて新しい」ものが見出せると思うから。ある意味で、カウンターモダニズムである。

2008年02月27日 University トラックバック:- コメント:1

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2008年08月27日 URL 編集












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